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帆布って何?

帆布って何?

タケヤリの工場で織られている帆布は1mからご購入が可能です。

当サイトで取り扱う帆布は織り上げたままの無加工の生地(キバタ)です。

より帆布の事を知ってもらう為に、帆布について詳しくご紹介していきます。

綿花とは?

綿花とは?

綿糸は上の写真のような綿花からつくられます。
こちらは去年、職人さんの畑で作られたものです。
ふわふわできれいな綿になりました

綿花とは?

ふわふわの綿花の中に種が隠れています。
しっかりと綿に守られていますね。

綿花とは?

綿の繊維を取りきると小さな種が現れました。

昔は倉敷地区でも綿花の栽培が盛んでしたが、現在ではほとんど栽培されていません。

今でも綿の産地として名残は残っていますが原材料は外国から輸入した綿を使用しています。

帆布発祥と工楽松右衛門

帆布発祥と工楽松右衛門

帆布の発祥は、古代エジプトまで遡り、船の帆として使われた亜麻帆布が始まりだと言われています。
耐久性に優れた布は、ミイラの巻き布にも使われていました。

現代の帆布は江戸時代末期に伝わり、和泉、三河、播州、備前、備後地方で盛んだった帆木綿を船頭であった工楽松右衛門が速い船をつくるため、良い帆の発明に没頭し、綿帆布へと発展させていきました。
それは江戸と大阪の航路をさらに発展させる発明品となり、たちまち全国へと広まっていきました。

工楽松右衛門は長男として1743年に高砂町東宮町で生まれ、15歳で高砂を離れた後、兵庫の港で船乗りになりました。
そして港から港へと様々な物を運ぶ仕事に就きました。
生涯の中で、海に関する「物」防波堤改修、港の整備など、様々なことを行いました。
帆布の開発もその中の一つです。

帆布が誕生するまで

帆布が誕生するまで

江戸時代の船は、帆に風を受けて進む帆船でした。
この当時の帆は、それまで使われていた藁で作られた「むしろ」から木綿布へと変わっていきました。
しかし木綿布では弱く、丈夫にするため2枚重ねにし、それを3枚繋ぎ合せて帆としていました。
これを 「刺帆」と言います。
この刺帆は、それまでのむしろ製より優れていましたが、作るのに人手が掛かるわりには破れやすく、水分を含んですぐ重くなるという欠点がありました。松右衛門はこの刺帆の改良に挑んだのです。

刺帆は木綿布を何枚か貼り合わせているが、それならば、1枚ものの丈夫な布を作ってそれを帆にしてはどうか?
そこで播州の特産品である木綿を使い、これまでとは比べものにならないくらい太い綿糸を作って布を織ることにしました。
しかし、太い糸を作ること、さらにそれを織る方法、そのための織機を作ることは簡単ではありませんでした。
さすがの工楽松右衛門も悪戦苦闘の連続でした。
播州二見(現在の明石市二見)の製糸工場で失敗を繰り返しながらも、ようやく納得いく布を作ることに成功しました。

これを帆にして、松右衛門は早速実験を行いました。
帆は、風を編み、船を進める。出来上がった帆は丈夫で強く、水切りも良かった。
刺帆の欠点は見事に克服されていたのです。
この布はそれまでの「刺帆」に対して「織帆(帆布)以下帆布と呼ぶ」と名付けられました。

帆布は、これまで以上に強い風を受けて船を走らせることができるようになり、船の速度は向上した。
これは、航海の時間短縮に繋がりました。
さらに帆の修理や取り換えなどの手間が少なく、人手も掛からなかったそうです。

この帆布を本格的に生産するためには工場を作らなければなりませんでした。
船頭である松右衛門には十分な資金はありませんでしたが、北風家の分家である喜多家の援助により兵庫の中心地である佐比江町に工場と店が作られ、ついに帆布の生産が始ったのです。


参考文献:高砂市教育委員会(2013) 風を編む海をつなぐ

帆布が倉敷・児島地区で発展したのはなぜ?

帆布が倉敷・児島地区で発展したのはなぜ?

岡山県の倉敷・児島地区は、繊維産業に適した街です。
海が近い児島地区は、塩害の影響もあり、農耕に適していない土地でした。
そんな土地でも成長したのが、綿花だったのです。
温暖な気候、豊富な水源、海を埋め立て新田に良質な綿を栽培していました。
綿を加工して糸に変え、糸をさらに撚って太い糸に変え、それを織って紐や布地を作るようになりました。
現在でも児島地区は、綿産業が盛んで、学生服やジーンズなど綿製品の一大産地となっています。

そんな中、タケヤリを創業した武鑓石五郎と梅が、工楽松右衛門が考案した新しい技術(帆布)に着目し、技術を取り入れていきました。
今もその技術を伝承し織り続けています。
現在帆布の国内生産量約7割を占める帆布の一大産地となっています。

タケヤリの工場が位置する倉敷市「曽原(そばら)」という地名は、原野に帆布を干した「帆原(ほはら)」から由来するとも言われています。

タケヤリの歴史

タケヤリの歴史

1818年

児島地区で作られた布地や帯地は、雲斎・小倉織・真田紐の良さが人気となり、瑜伽大権現門前町の土産物として全国からの参詣人に買われていきました。
農業の余暇であった綿作りは、片手間な仕事ではなくなり、急激な発展を遂げていきました。

タケヤリの歴史

1867年

薩摩藩がイギリスより紡機を輸入したことから、日本最初の機械紡績所として鹿児島紡績所の操業が開始されます。

タケヤリの歴史

1882年

渾大坊兄弟により下村紡績所が創設されました。
また日本でわずかにしか導入されていなかった紡績機に着目し、岡山県下初の紡績所として創業しました。

タケヤリの歴史

1888年

児島地区の郷内にて、厚物織り工場として株式会社タケヤリの前身である「武鑓帆布工場」が武鑓石五郎と梅により創業されました。
ここから私どもの工場130年の歴史が始まるのです。

タケヤリの歴史

石五郎はもともと農業や行商を行っていましたが「織り姫」と呼ばれ機織りの名手であった梅との結婚を機に製織・販売業に転じました。

その後、2代目卓衛の時代に”手織りから動力織機”に切り替える事により生産増加への布石を築きました。

そして、先の大戦を経て3代目和夫が導入したベルギー製シャトル機ピカノールが、現在他社では織ることのできない極厚の1~3号帆布を生み出していきます。

1984年には現会長の澄治が5代目社長に就任し、超高速織機の導入を促進するなど成長速度を増長させていきました。
そして2010年、会長自ら陣頭に立ち、これまでの生産工場という立場からファクトリーブランドとして、新しい一歩を踏み出しました。
そして現在では、「TAKEYARI since1888」「UNDER CANVAS」「壱等雲斎」という3つのバッグブランドを展開しています。

帆布の糸について

帆布に使われているのは10番単糸という太さの糸です。

帆布は撚り合せた10番単糸の本数によって厚み(号数)が決まります。

1本の糸に何本の糸を撚るかで糸の太さを変え、異なる厚みの帆布を織り上げています。

帆布の糸について

番手は糸の太さを表す単位で、一定の重さあたりの長さのことを指します。

数字が小さいほど太い糸(例)10番糸の方が20番よりも太くなります。

帆布は基本10番の糸を使っています。

帆布の糸について

例えば、8号帆布は10番単糸が3本撚り合わさり1本の太さになっています(上部写真参照)

帆布の糸について


帆布の中でも一番分厚い1号帆布は10番単糸を8本も撚り合わせています(上部写真参照)

すべての帆布に10番単糸を使っているので、効率を考えられた織物です。

太い糸を作る為に何本も糸を撚り合わせることを「合糸」と言います。

ここまでの太い糸に撚る技術も帆布産地ならではです。

生機(キバタ) 織り上げたままの生地

何も加工されていない織りあげたまま織機からおりた状態の生地を生機(キバタ)と言います。

タケヤリで織られている帆布は無糊で糸にも糊つけを行っていませんが 綿の素材そのものを織り上げていますので綿の油分が残っています。

 

生機(キバタ) 織り上げたままの生地

 

綿の天然の油分が残っている為、天然の撥水効果があります

 

生機(キバタ) 織り上げたままの生地

 

某帆布のトートバッグなどは氷を運ぶのに使われていたのは有名な話です。

染色やプリントをされる際は精錬、または漂白などの下加工が必要となります。
綿の油分によって染料やプリントが入りにくい為です。
洗いなどの加工を施すと縮みが発生したり、撥水効果がなくなる恐れがありますのでご注意ください。

出荷に関して

出荷に関して

タケヤリで織られている帆布は基本的には生成り色の染まる前の生機ですので

この後、染工場に出荷される事が多い為、畳んだ状態で保管しています。

出荷に関して

TAKEYARI ONLINE STOREで販売している帆布は折りたたみで保管されたものを

再度、丸巻きをする機械で巻いた状態のものです。

保管している際に折りたたみの跡が残っている場合がありますのでご了承くださいませ。